昭和42年02月12日 朝の御理解



 昨日ここの御造営になります、あちらの各部屋部屋の調度品が決まらなければならない、購入しなければならないと言うので、昨日昼から初めて私はあの大川に参りました。大川と言う、いわゆる木工の町なんです。そのために各部屋部屋を、どこにはどういう調度品が良い、どういう寸法のものだと言うことを、昨日決めませんために、あちらんぼ現場に皆んなで参りました。
 丁度昨日私共が参りました時に、水道の試運転があっておりました。もう私はびっくり致しました。そりゃあの水道が引いてあって、そこそこから蛇口がこう水道口が出ておりますから、そこをひねれば水が出るのは当たり前で御座いますけれども。とてもとてもそのそれは当たり前と思えませんでした。かまど部屋の横のなんかは、こんな大きな蛇口からスイッチ一つ押しますとですね、それこそ滝の水の様に、だぁっと渦を巻いて出ます。もうそりゃもう私はあれを見て、胸が一杯になるほど感激いたしました。
 各部屋部屋には、水が至る所から出る様になっております。水だけではありません。もうあの下の方地下には全部、水道だけではない、電気、ガス、電話、各部屋に通ずる、やっぱ電話でしょうかね。そういうものでもう下の方は様々な、この網の目のように配線がしてあるそうで御座います。ここをひねればガスが、いわゆる火が出る。火が吹き出る。ここをひねれば、水が至る所からそれこそ、もう本当にあの滝の水て大げさの様ですけれども、私はびっくり致しました。
 こんな大きな水槽がですねあっという間に一杯になるんですから。しかもその勢いたるやですね、渦を巻いて出るです中にこんな大きな蛇口ですから。そこから火が出るここから水が出る。これを押せば御広前の廊下関係のほんなお広前の関係だけで、二千個電気が灯りますそれこそもうどの様な暗い時でも、それこそ昼を欺く様な光が各部屋につく様になっております。本当にここまでのお進めを頂き、ここまでのお働きを頂くために、どのくらい神様の様々なお働きがあっておる事であろうかとこう思います。
 あちらの大川の町にも。昨日はあの美術を担当しておられる。渡辺先生が丁度昨日でなかったら、時間がないと言うので、あの昨日前の日に月次祭の日に参りましたですけれど、委員長の秋永先生とそれから、久富正樹さんところの親戚の関係に当たる、その家具屋さんの所の紹介とそれに木工新聞、木材新聞の関係である古賀さんと、それから記録に高橋さんが付いてきて下さいました。もうあちらへ参りましてから、もう本当に只々驚くばかりで御座いました。
 もうこちらが当てしておったとこじゃないですね、神様が用意してござる、準備してござると言う所は。調度品が丁度五十何万ほど購入されました。それがもう昨日は、あっそれから家内も参りました。どうでも奥さんに来て頂かなければ、家庭の方の住まいの方のあれが分からないと言うので。それはもう本当に私共が、夢にも想像しなかったような、見事な家具が、もうここ幾日か内に参ります事でございましょうけれども。
 一番初めに家内の鏡台を買われました。いやそうでしたもうそれなんか、次々とですねこの寸法で、これでなからなければならないと言うのが、もう本当に神様がこういう倉庫の、こういう隅にそこの店の方達も知らない様な所にあるのに驚きました。皆んなそんなふうな状態でした。もう実にあの大川の木工は大体粗末だと言われておりますけれども、もう殆どが大川で買いましたけれども。
 大川の物ではありません。もう全国のあらゆるその、有名な木工所で出来ました、最も先端をゆくその家具ばかりです。その中に一遍家内の方の鏡台、それだけを頂いて参りましたが、後からご覧下さいとにかくあれに準じたような物です。もう本当にもう昨日家内とも話した事ですけれども、本当にそれがもうねこれが欲しいとか、こげんとが良かち言うのじゃなくてです、もうどうでもこうでも、そうしなければならない様に、神様はおかげを下さると言う事。
 言うならばそれこそ、ボタンを一つ押せばそこから、渦を巻く様な水が流れたり、ボタンを一つ押せば、何千光と言う様な電気が、一遍にポット灯ったり。ここのボタンを押せば火が出る様にです。そこまでの信心そこまでの、私は神様の働きという物と、同時にその設備の期間と言うものがですね、私は信心の上にも、考えられる事だとこう思うのです。信心いわば願えども願えども、願い我が意のままにならず。
 いや意のままにならん所ではない、反対の事になって行く様な状態の中に、神様の御都合に間違いはない。神様のお働きに間違いはない。いやこれはまぁだ、私共の信心が足りんからだと言う、その一念で信心を進めてさえ行けばです。その神様の御都合だこれはまぁだ、私の信心が足りんからだと言う。そういう信心の中から、この部屋に灯が灯りこの部屋には火が出り、この部屋には電気が灯ると言う様な働きが、そういういわば職工さん達が電工さん達が、技術屋さん達が様々にその、いわば配線を致しまして。
 それが出るようになるまでです。そしてそこに一つの物がカチッとこう繋がった時です、いわゆる昨日いわば水道が試運転されて、各部屋から水道がその水が出て参ります様にです。それまでは如何に私どもが、ばたばたした所で、如何にスイッチを押した所で、出らせんでしょうが。お互いがですね、お互いが修行致しております。お互いは難儀を感ずる事もあります。淋しい思いをする事もあります。難儀な思いをする事がありますけれどもです。そういう中にです。
 神様の私共が淋しい思いをする時には、する時ほど神様にお願いをして、思う様になる時には、用心が必要であり、願った通りのおかげの時に本当のもんじゃないと。願うても願うてもおかげが頂けんと言う様な時ほど、それは信心も怠り修行もせずに思うようにならんと言うのは、これは別ですけれども。一生懸命の信心を私なりに皆さんなりに、一生懸命なさっておられながらです。思い通りの事がなされない。右と願っても返って左になると言う様な時にこそ、神様の願いが成就しておる時であると言う事。
 神様の願いが成就しておるという時には、どう言う事かと言うと、氏子を幸せにせねばおかん。氏子におかげをやらなければおかん。神様の願いとはそれなんですから。そういう働きがあっておる時だと思うて、神様の御都合であると同時にです。そういう働きを頂いておる時と、確信してその事に対して、お礼を申し上げて、愈々信心を進めて行く所のおかげを頂かせて頂かなければならない。
 腹の立つような思いの時に、時に私ははぁ今この部屋に、電気の設備が今ありよる時だ。今この部屋に水道の準備が出来ておる時だと。願いが大きければ大きいだけ、一部屋じゃない二部屋ではない。四百五十坪から建て坪あると言う、あの御広前一杯にです。水と言えば水火と言えば火光と言えば光がです、を放つような放出される様なです、おかげを頂くための信心準備期間と言う事をです。
 又はあの御造営がはじまって、もう丸二年になんなんとしております。その間にあの設備のされるまではです、幾ら私どもがバタバタしたって、電気もつかなければ火も出ないのです。水も出らないのです。設備完了と言う事と同時にです。元を押せば光が水が火が出る様になってるんですから。それと同じ事です。私は何年信心しよるけども、まだおかげが受けられん。いつおかげをいやもう私段なおかげを受けられんのじゃろうかと言った様なです、さもしい心を起こさずにです。
 愈々元気な心でお互い信心させて貰わなければいけません。貰い水には限りがあり、湧きですまでが信心辛抱と仰せられる。その事その事をです私共がお繰り合わせを頂いてお願をさせて貰うて、まぁ痛い所はさすって貰い痒い所は掻いて貰いながら、愈々神様の願いである所の願いが成就する。神の願いが地上にになると仰せられるが、神様の願いが氏子一人一人の上に、成就して行く様なおかげを頂かせて頂くためにです。いかに信心修行が信心辛抱が必要であるかと言う事を感じん訳には参りません。
 おかげと言うのは丁度その御造営現場にです、只今申します様に水に火に、又は光にそれが灯るとかそれが出るとかと言うまでの、いわば設備期間と言う、そこん所を大事にしなければなりません。この部屋だけを疎かにしてご覧なさいませ。ここん所を一つ抜きにしてご覧なさいませ。もうその部屋には灯りません。もうその部屋には出ません。大きな願いをかけさせて頂くなら頂くほどです。いいえもう私は私の部屋だけで良かといや、それまでですけれども。
 願いが大きければ大きいだけ、矢張り準備期間としても、長い期間を要するのであり、設備も矢張りそれぞれの業者達がです。どうでしょうか。もう地下にこういけてある所の配線と言うものが、まぁ電気の線でんガスの線でん、あんまり変わらんからまぁこれとこれと繋いどこうと言うてからああた、ガスの線と水道の栓を繋いだ所でです。電気の線を繋いだ所で、何も出はしますまいもん。そんなに実を言うたら、天地の摂理と言うのは厳しいのですある意味では。
 ですからこそ何事にも信心にならなければいけんのです。例えば昨日私共は調度品を買いにやらせて頂きましてもです。もうどの一品に致しましてもです、ここに矢張り集めたようなものがです。それがもう本当に蔵の奥の奥に仕舞うてあると言う事です。それを例えばほんならみんな行っとる人達が、ここに愈々ないと思うた所がこれがあったという様にですね。だからそういうあの御造営の御新築に、ふさわしい調度品と言った様な物もです。神様はちゃんと何年がかりで準備しておって下さる。
 これが椛目のものだ合楽のものだという風にです。取っておいて下さっておると言ったような事を感じん訳には参りませんて。しかも金額をこう締めて参りましたらですね。大体五十万ぐらいが家具類の事になっておりました。丁度その金額です。沢山の物をあれもこれもと締めてみてそれだけになるです。まぁ勉強して頂きましたですねぇ。正札七十何万のを、五十二万、五十一万五千円か何か、それくらいにして貰った。
 二十万から負けて頂いた。それはもうそれだけの事が、けれどもあのいうなら、秋永先生あたりなんかは、もうあれはああ言う事に玄人ですから、みんなその知識のある人達ばっかりですから。もう本当にもう本当に神ながらに、安く買わせて頂いたと言うております。しかも本当に最高の品物を、もうどの品どの品でもです。その一品一品がですもう何と言う充実した買いものであっただろうか。もうどの品もどの品もです。もう実にそのあれがこちらについたらです。
 どの品を見てももう一遍並べさせて貰いたいという風に楽しい品ばっかりなんです。本当にそういう様なものがです。神様のそのお働きの中に、いわばそれは水道とか電気の設備と同じことのように。そういう設備期間があって、それがなされて行く時に一つの不自然さもなし無理もなし、神様のおかげとして頂けなければおられんほどのおかげが、そこに頂けれるということをです。これは何時も椛目の上に現れてくる、神様の特別な働きをです。皆さんが、感じて下さるであろうがです。
 そういう特別な働きが、そんなら皆さんの一人一人の上にも、あっていない筈はないのです。ですからその場その時をです、大事にしてその場その時をもしそこを疎かに致しましたらです。もうその場その時にです。そこからは火が出ないのであり、そこには灯が灯らない事になるのですから。神様と言ういわば技術屋さんがです、そこん所を私共が疎かにすりゃ、いわばその技術屋さんもそこん所を疎かにするに違いありませんよ、神様が。氏子の心次第と仰るのですから。
 そん時そん時その場その場を、ひとつ実意丁寧に大事にして参りまして。只願うたいわゆるその貰い水的なおかげから、いよいよそうした湧き出るまでの、神様の願いが成就するという様な意味合いの、おかげを頂かせて貰うて、初めて神様にも喜んで頂けれるおかげ。私共もどんなに考えても私は家内が家内の前に座ってから、それこそもう本当に大体は、私の好みでもなからなければ、家内の好みでもない。けれどもこれでなからなければ、あそこには映らんて。化粧部屋が一畳出来てますですね。
 そこにもうきちっとこうはまるように。座ってみてです私共の例えば、趣味とか趣向と言うものが如何に浅はかな、小さいものであるかと言う事を感じると。この前に座って見りゃやっぱこれが一番最高のものだ。何とそのぴったりこの通う事かという意味の事を、家内があの前に座ってから。その感謝がそれこそ涙に暮れておる訳です。そういう上等なものが使われるけんと言う意味の様なものじゃないです。そこまでの神様の働きと言うものをです。それこそ本当に、夢にも思わなかった様なものがです。
 そこにこう実現して行くというか現れて行く所のおかげというもの。それは家内の喜びではなく神様の喜びである。もう本当にあの一番初めの家内のその鏡台をですね。買わして頂いたそこから道が付いたから不思議でした。これはいうならば家内の信心の、これはいうならば魂だと。鏡は女の魂だと言われるくらいですから。成程秋永先生がいいや奥さまに来て頂かなきゃ出来んと言われたようにです。
 成程そうでなからなければ、あの糸口が付かなかったという感じでした。もう昨日一日の事でも、お話をすると本当に、それはもう有難い一日でして、ここにもそこにも神様の働きをその見、感じして参りましたんですけれども。それがそれこそローマ一日にしてならずであります。それまでにはそれまでの神様の一つの準備期間、私共のいうならば修業期間と言うものがあっての、初めてそれが成就する訳でございます。
   どうぞ。